「バッカラ」という言葉を聞いたことがありますか?日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、イタリア料理の世界では古くから愛され続ける、非常に重要な食材です。バッカラとは、一言でいうと「タラの塩漬け」。 冷蔵技術がなかった時代に、魚を長期間保存するために生み出された知恵の結晶であり、その独特の風味と食感は、現代でも多くの人々を魅了してやみません。
一見するとただの塩辛い魚に見えるかもしれませんが、バッカラは丁寧な下処理を経て、フリットや煮込み、ペーストなど、驚くほど多彩な料理に変身します。その背景には、大航海時代から続く長い歴史や、キリスト教の食文化との深い関わりがあります。 この記事では、そんな奥深い食材「バッカラ」の基本情報から、歴史、種類、そして家庭で楽しむための戻し方や代表的なレシピまで、その魅力を余すことなく、わかりやすくお伝えしていきます。
バッカラの正体と魅力に迫る
イタリア料理に欠かせない食材と聞くと、トマトやオリーブオイル、パスタなどを思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、実はこの「バッカラ」も、イタリアの食卓、特に伝統的な家庭料理において非常に大切な存在なのです。まずは、バッカラが一体どのような食材なのか、その基本的な定義や製法、そしてよく似た食材との違いについて詳しく見ていきましょう。
塩漬けされたタラ「バッカラ」の定義
バッカラ(Baccalà)とは、イタリア語で「タラの塩漬け」を意味する言葉です。 主にマダラやスケトウダラなどのタラを開き、大量の塩を使って漬け込み、適度に乾燥させて作られます。 この製法により、魚の水分が抜け、長期間の保存が可能になります。 冷蔵庫がなかった時代、特に海から遠い内陸部の人々にとって、魚は非常に貴重なたんぱく源でした。
バッカラは、そんな時代に魚を安全に、そして美味しく食べるための画期的な保存食として誕生したのです。 スペインでは「バカラオ」、ポルトガルでは「バカリャウ」と呼ばれ、同じく塩漬けのタラとして親しまれていますが、これらは基本的に同じものを指します。 イタリア全土で食べられていますが、特にヴェネト州やリグーリア州、南イタリアの各州で郷土料理として深く根付いています。
塩漬けと乾燥が生み出す独特の風味と食感
バッカラの最大の魅力は、なんといってもその独特の風味と食感にあります。生のタラが持つ繊細で淡白な味わいとは異なり、塩漬けと熟成のプロセスを経ることで、うま味成分であるアミノ酸が凝縮され、非常に濃厚で深い味わいが生まれます。生の魚とは全く違う、しっかりとした歯ごたえと、ほろりとした繊維質な食感も特徴です。
調理する前には、数日間かけて水に浸し、塩抜きという作業が必須となります。 この手間のかかる工程こそが、バッ…カラを美味しく食べるための重要なステップです。塩分を適切に抜くことで、凝縮されたタラのうま味だけが残り、身はふっくらと柔らかくなります。この下処理を経たバッカラは、まるで新しい食材に生まれ変わったかのように、様々な調理法でおいしさを発揮します。塩抜き加減によって味わいが変わるため、料理に合わせて調整するのも楽しみの一つと言えるでしょう。
「ストッカフィッソ」との違いとは?
バッカラとよく混同される食材に「ストッカフィッソ(Stoccafisso)」があります。 これも同じくタラの保存食ですが、製法に明確な違いがあります。バッカラが「塩漬けにしてから乾燥させる」のに対し、ストッカフィッソは塩を使わずに「素干し」にしたものです。 日本の「棒鱈」によく似ている、と言えばイメージしやすいかもしれません。
ストッカフィッソは、ノルウェーの寒く乾燥した気候を利用して、内臓を取り除いたタラを木製の棒に吊るして数ヶ月間寒風に晒して作られます。 そのため、仕上がりはカチカチに硬く、調理するにはバッカラ以上に時間をかけて水で戻す必要があります。 一方、味わいは塩気がない分、タラ本来の風味がよりピュアに感じられます。
面白いことに、イタリアのヴェネト州など一部の地域では、ストッカフィッソのことを「バカラ(Bacalà、cが一つ少ない)」と呼ぶ習慣があり、これが混乱の原因となることもあります。 例えば、ヴェネト州の郷土料理「バッカラ・マンテカート」は、名前には「バッカラ」と付いていますが、伝統的なレシピではストッカフィッソが使われます。 このように、呼び名と実際の食材が一致しないケースもあるため、少し注意が必要です。
バッカラを巡る歴史と文化の物語
今ではイタリア料理の食材としてすっかり定着しているバッカラですが、そのルーツはイタリア国外にあり、大航海時代や宗教的な背景と深く結びついています。なぜ北欧生まれの保存食が、遠く離れたイタリアの地でこれほどまでに愛されるようになったのでしょうか。ここでは、バッカラがイタリアの食文化に根付くまでの歴史的な道のりを紐解いていきます。
大航海時代が生んだ偉大な保存食
バッカラの歴史は、ヴァイキングが活躍した時代まで遡るとも言われています。彼らは航海の際の貴重な食料として、タラを乾燥させた保存食を利用していました。 その後、大航海時代に入ると、長期の航海に耐えられる保存食の需要がさらに高まります。バッカラは、スペインやポルトガルの船乗りたちによって、世界中へと広まっていきました。
イタリアにバッカラが伝わった経緯には諸説ありますが、15世紀にヴェネツィアの商人が航海中に嵐で遭難し、ノルウェーのロフォーテン諸島に漂着したことがきっかけ、という説が有名です。 彼はそこでストッカフィッソ(干しダラ)に出会い、ヴェネツィアに持ち帰ったところ、その保存性の高さと美味しさが評判を呼び、イタリア全土に広まっていったと言われています。
イタリア全土に普及した背景
バッカラがイタリアで広く受け入れられた背景には、その地理的条件が大きく関係しています。イタリアは三方を海に囲まれていますが、内陸部や山岳地帯では新鮮な魚介類を手に入れることは困難でした。 その点、常温で長期間保存でき、かつ栄養価も高いバッカラは、海から遠い地域の人々にとってまさに画期的な食材だったのです。
また、交易の民であったヴェネツィア商人やジェノヴァ商人たちが、北欧からバッカラを積極的に輸入し、イタリア国内の流通網に乗せたことも普及を後押ししました。 こうしてバッカラは、港町から内陸の隅々にまで浸透し、各地でその土地ならではの野菜や調理法と結びつき、多様な郷土料理を生み出していったのです。
キリスト教の食文化との深い関わり
バッカラの普及には、キリスト教、特にカトリックの食習慣も大きく影響しています。カトリックでは伝統的に、金曜日や四旬節(復活祭前の約40日間)などに、肉を食べることが禁じられる「断肉日(または小斎)」という習慣があります。
この断肉日には、肉の代わりに魚を食べることが推奨されていました。しかし、誰もがいつでも新鮮な魚を手に入れられるわけではありません。そこで、安価で保存がきき、いつでも手に入るバッカラが、断肉日の食卓に欠かせない食材として重宝されるようになったのです。 クリスマス・イヴの夕食など、宗教的に重要な日のメニューとしてもバッカラ料理は定番となっており、イタリア人の信仰と暮らしに深く根付いていることがうかがえます。
世界で愛されるバッカラの産地と種類
イタリアの食卓に欠かせないバッカラですが、その原料となるタラは、実はイタリア近海ではほとんど獲れません。 バッカラの故郷は、遠く離れた冷たい海の広がる北欧です。ここでは、バッカラがどこで、どのような種類のタラから作られているのか、そして日本で手に入るバッカラにはどのようなものがあるのかについて解説します。
主な産地はノルウェーをはじめとする北欧
バッカラおよびストッカフィッソの主要な生産地は、ノルウェー、アイスランド、デンマークといった北ヨーロッパの国々です。 中でもノルウェーは世界最大級のタラ漁獲国であり、高品質なバッカラの産地として知られています。
特に、前述したストッカフィッソの生産は、ノルウェー北部のロフォーテン諸島が本場です。 2月から4月にかけての厳しい冬の寒さと乾燥した空気が、タラを腐敗させることなく、じっくりと乾燥・熟成させるのに最適な環境を提供します。 塩漬けにするバッカラも、こうしたタラの漁獲が盛んな地域で、伝統的な製法に基づいて作られています。作られたバッカラは、イタリアやスペイン、ポルトガルをはじめ、世界中の国々へ輸出されています。
原料となるタラの種類
バッカラの原料として最もよく使われるのは、タイセイヨウダラ(Gadus morhua)です。 これは、大型で身が厚く、脂肪分が少ないため、塩漬けや乾燥加工に適しているからです。しっかりとした繊維質の身は、塩抜きして加熱すると、ほろりとした独特の食感を生み出します。
その他にも、スケトウダラやコダラなど、他のタラ科の魚が使われることもあります。 魚の種類や大きさ、部位によっても、価格や味わい、食感が異なります。一般的に、厚みのある背中の部分が高級とされ、煮込み料理やオーブン焼きなどに、尾に近い部分や腹身はフリットやサラダ、ペーストなどに使われることが多いようです。
日本で手に入るバッカラの種類
日本では、イタリア食材の専門店や、品揃えの豊富なデパートの食料品売り場、オンラインショップなどでバッカラを購入することができます。多くの場合、骨付きのまま大きくカットされたものや、使いやすいように骨を取り除いて切り身にしたものが、真空パック詰めで販売されています。
日本で流通しているものの多くは、すぐに調理できる状態まで塩抜きされた「戻し済」タイプではなく、カチカチに塩漬けされた「乾燥」状態のものです。そのため、家庭で調理する際には、後述する塩抜きの作業が必要になります。 また、日本の「塩ダラ」や「甘塩ダラ」は、バッカラに比べて塩分濃度が低く、保存期間も短いため、風味や食感が全く異なります。バッカラ料理を作る際は、やはり本場のバッカラを使用するのがおすすめです。
バッカラ調理の第一歩!塩抜きと下準備
カチカチに塩漬けされたバッカラを、美味しい料理に変身させるために最も重要な工程が「塩抜き」です。この下準備を丁寧に行うことで、バッカラ本来の凝縮されたうま味を引き出し、ふっくらとした理想的な食感に仕上げることができます。ここでは、時間がかかっても確実においしくなる、基本的な塩抜きの方法とコツをご紹介します。
塩抜きの重要性と基本的な手順
バッカラは、塩分濃度が18%以上にもなる非常に塩辛い保存食です。 そのままでは到底食べられないため、調理の前に必ず水に浸けて塩分を抜く必要があります。この塩抜き作業には、通常24時間から36時間、場合によってはそれ以上かかります。
基本的な手順は以下の通りです。
1. まず、バッカラの表面についている塩を、手で軽く払い落とすか、さっと水で洗い流します。
2. 次に、バッカラがすっぽりとかぶるくらいの、たっぷりの水を入れた容器にバッカラを浸します。
3. この状態で冷蔵庫に入れ、時間をかけてゆっくりと塩を抜いていきます。この間、1日に3〜4回、水を新しいものに交換します。 水をこまめに取り替えることで、効率よく塩分を抜くことができます。
この地道な作業が、バッカラの塩辛さを和らげ、うま味だけを残すための大切なポイントです。
冷蔵庫でじっくり時間をかけるのがコツ
塩抜きをする際は、常温ではなく冷蔵庫で行うのが基本です。特に夏場など気温が高い時期は、水が傷みやすく、魚の品質が劣化する原因にもなります。低温でゆっくりと戻すことで、安全かつ衛生的に塩抜きを進めることができます。
塩抜きにかかる時間は、バッカラの厚みや大きさによって大きく異なります。 厚く大きな塊であればあるほど時間は長くなり、3日以上かかることもあります。逆に、あらかじめ小さくカットしてから水に浸けると、塩が抜けるまでの時間を短縮できます。 煮込み料理など形を残したい場合は大きめに、ペーストやサラダにする場合は小さめにカットするなど、作る料理を想定して下準備を始めると良いでしょう。 時間がない場合は、流水にさらしながら塩抜きをすると早く進みますが、水を大量に使うことになります。
戻し加減の見極め方と味見の重要性
塩抜きの最終的なゴールは、「ほんのり塩味が残る」状態です。塩を抜きすぎてしまうと、バッカラのうま味まで抜けてしまい、水っぽく味気ない仕上がりになってしまいます。逆に塩が残りすぎていると、料理全体の味がしょっぱくなってしまいます。
最適な塩抜き加減を見極めるためには、味見が欠かせません。 24時間ほど経ったあたりで、身の端を少しちぎって、そのまま食べてみましょう。もし電子レンジがあれば、少し加熱してみるとより分かりやすいです。この時、「少し塩辛いかな」と感じる程度が、加熱調理した際にちょうど良い塩梅になります。もししょっぱすぎると感じたら、さらに水を取り替えながら塩抜きを続けます。この味見を繰り返して、自分好みの塩加減を見つけることが、バッカラ料理を成功させるための秘訣です。
バッカラで作る絶品イタリア郷土料理
じっくりと時間をかけて塩抜きしたバッカラは、いよいよ調理のステージへ。その淡白ながらもうま味の濃い身は、揚げる、煮る、ペーストにするなど、様々な調理法でその真価を発揮します。ここでは、イタリア各地で愛されているバッカラの代表的な料理をいくつかご紹介します。これらの料理を知れば、あなたもきっとバッカラの虜になるはずです。
ヴェネツィアの味「バッカラ・マンテカート」
ヴェネツィアを代表する郷土料理といえば、「バッカラ・マンテカート」を外すことはできません。 これは、水で戻したバッカラ(伝統的にはストッカフィッソを使用)を牛乳や香味野菜と一緒に茹で、その身をほぐしながらオリーブオイルを少しずつ加えてクリーム状になるまで練り上げた、白くふわふわのペーストです。 「マンテカート」とは「練り上げる」という意味のイタリア語です。
その味わいは、タラの凝縮されたうま味と牛乳のコク、そしてオリーブオイルのフルーティーな香りが一体となった、非常にクリーミーで上品なものです。パンやポレンタ(とうもろこしの粉を練り上げたもの)にたっぷりと乗せて食べるのが定番のスタイルで、ヴェネツィアのバーカロ(居酒屋)では前菜のチケッティとして欠かせない一品です。 手間はかかりますが、そのおいしさは格別で、一度食べたら忘れられない味です。
南イタリアの家庭の味「トマト煮込み」
南イタリア、特にナポリやシチリアでは、バッカラをトマトソースで煮込んだ料理が広く親しまれています。 これは、塩抜きしたバッカラに小麦粉をまぶしてカリッと揚げ焼きにし、その後、ニンニク、オリーブ、ケッパーなどを加えたシンプルなトマトソースで煮込むのが一般的なスタイルです。
バッカラの塩気とうま味がトマトソースに溶け込み、深いコクと豊かな風味を生み出します。ジャガイモやパプリカ、玉ねぎなどの野菜を加えて、具だくさんの煮込みにすることもよくあります。 バッカラのしっかりとした食感と、野菜の甘み、そしてトマトの酸味が絶妙にマッチし、パンが進むこと間違いなしの家庭料理です。地域や家庭によってレシピは様々で、それぞれの「マンマの味」があります。
シンプルが美味しい「バッカラのフリット」
バッカラの美味しさを最もシンプルに味わえる料理の一つが「フリット(フリッター)」です。 塩抜きしたバッカラを一口大に切り、小麦粉と卵、時にはビールや炭酸水を加えた衣(パステッラ)をまとわせて、カリッと揚げます。
外はサクサク、中はふっくらとジューシーな食感のコントラストがたまりません。バッカラ自体にしっかりとした塩味とうま味があるため、揚げたてにレモンをきゅっと搾るだけで、最高のアンティパスト(前菜)やワインのお供になります。 衣をつけずに、小麦粉をまぶしてシンプルにソテーするだけでも、バッカラの魅力を十分に楽しむことができます。 手軽に作れて間違いのない美味しさは、パーティーメニューにもぴったりです。
まとめ:バッカラとはイタリアの食文化を映す鏡
この記事では、イタリアの伝統的な保存食「バッカラ」について、その正体から歴史、調理法、代表的な料理まで幅広く解説してきました。
・よく似た食材に、塩を使わず素干しにした「ストッカフィッソ」がある。
・その起源は大航海時代に遡り、保存性の高さからイタリア全土、特に内陸部で重宝された。
・カトリックの断肉日の習慣とも深く結びつき、イタリアの食文化に根付いている。
・調理前には24時間以上かけた丁寧な塩抜きが不可欠である。
・代表的な料理には、ヴェネツィアの「バッカラ・マンテカート」や南イタリアの「トマト煮込み」、シンプルな「フリット」などがある。
単なる塩漬けの魚というだけでなく、その背景には人々の知恵や歴史、文化が詰まっています。手間ひまかけて調理することで、その本当の美味しさを発見できる奥深い食材、それがバッカラです。もしレストランのメニューや食材店で見かけることがあれば、ぜひ一度その味わいを体験してみてはいかがでしょうか。
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