今や私たちの食卓に欠かせない存在となったパスタ。カルボナーラ、ペペロンチーノ、ナポリタンなど、さまざまなソースで楽しめるパスタですが、その歴史をご存知でしょうか?実は、パスタの歴史はとても古く、古代ローマ時代にまでさかのぼるともいわれています。「マルコ・ポーロが中国から伝えた」という有名な話もありますが、真相はどうなのでしょうか。
この記事では、パスタの歴史を簡単に、そしてわかりやすく解説します。古代の誕生秘話から、乾燥パスタの登場、トマトソースとの運命的な出会い、そして日本で独自の進化を遂げるまでの壮大な物語を紐解いていきましょう。この記事を読めば、いつものパスタがもっと味わい深く、もっと面白く感じられるはずです。
パスタの歴史を簡単にたどる旅の始まり
私たちの食卓でおなじみのパスタですが、そのルーツは一体どこにあるのでしょうか。ここでは、パスタの歴史の原点に焦点を当て、古代の記録や有名な逸話の真相、そして「パスタ」という言葉そのものの意味について、わかりやすく解説していきます。
パスタのルーツは古代ローマ?ギリシャ?
パスタの直接の祖先を特定するのは難しいですが、その原型といえる料理は古代にまでさかのぼります。古代ギリシャには、「ラガノン(laganon)」と呼ばれる、小麦粉と水をこねて薄くのばし、焼いて食べる料理がありました。また、古代ローマにも同様の「ラガヌム(laganum)」という食べ物が存在し、肉や魚と一緒に層にして焼くなど、現代のラザニアの原型ともいえる調理法で食べられていた記録が残っています。
ただし、これらはあくまで「焼く」または「揚げる」料理であり、現代の私たちがイメージする「茹でる」パスタとは調理法が異なります。そのため、これらをパスタの直接の起源と断定することはできません。しかし、小麦粉を練って加工するという食文化の根源が、この時代から存在していたことは確かです。この古代の食文化が、後のパスタ誕生の土台となったと考えるのが自然でしょう。つまり、パスタの歴史は一本の線でつながっているわけではなく、各地のさまざまな粉食文化が影響し合いながら、長い年月をかけて形成されていったといえます。
マルコ・ポーロがパスタを伝えたはウソ?本当?
「パスタはマルコ・ポーロが中国から持ち帰った」という話は、非常に有名で、一度は耳にしたことがあるかもしれません。13世紀、東方見聞録で知られるヴェネツィアの商人マルコ・ポーロが、中国(当時の元)で食べられていた麺料理に感銘を受け、イタリアに伝えたという説です。この話はロマンがあり、長年広く信じられてきました。
しかし、現在ではこの説は歴史的な事実ではないとされています。その最大の根拠は、マルコ・ポーロが中国へ旅立つよりも前に、イタリアにパスタが存在したことを示す記録が見つかっているからです。例えば、1279年のジェノヴァの公証人役場の遺産目録には、「bariscella plena de macaronis(マカロニの入った籠)」という記述がはっきりと残っています。これは、マルコ・ポーロが中国から帰国する16年も前の記録です。
「パスタ」という言葉の語源とは?
私たちが日常的に使っている「パスタ(pasta)」という言葉は、どこから来たのでしょうか。その語源は、古代ギリシャ語の「パスタ(pastá)」に由来するといわれています。これは「大麦のおかゆ」を意味する言葉でした。その後、ラテン語の「パスタ(pasta)」へと変化し、「生地」や「練り粉」といった、より広い意味で使われるようになりました。
つまり、もともと「パスタ」という言葉は、スパゲッティやマカロニといった特定の形状の麺だけを指すものではなく、小麦粉と水をこねて作る生地全般を意味していたのです。ピザの生地やパン生地なども、イタリア語の文脈では「パスタ」に含まれることがあります。
現在、イタリアでは法律によって「パスタ」の定義が厳密に定められています。乾燥パスタについては、デュラム小麦のセモリナ(粗挽き粉)と水で作られたものだけが「パスタ」と名乗ることが許されています。このデュラム小麦こそが、パスタ独特のコシ(アルデンテ)を生み出す重要な要素なのです。
乾燥パスタの誕生とイタリアでの広がり
パスタが世界的な料理へと飛躍する上で、極めて重要だったのが「乾燥技術」の確立です。生パスタは日持ちしませんが、乾燥させることで長期保存と長距離輸送が可能になりました。この技術革新が、パスタの歴史を大きく動かすことになります。
アラブ人がもたらした乾燥技術
パスタの歴史において、乾燥技術の伝来は画期的な出来事でした。この重要な技術をもたらしたのが、9世紀頃に南イタリアのシチリア島を征服したアラブ人でした。彼らはもともと砂漠地帯で生活しており、旅の間の保存食として、小麦粉を棒状に成形して天日で乾燥させる技術を持っていました。これが現代の乾燥パスタの原点といわれています。
この技術がシチリアに伝わったことで、パスタはそれまでの「作ってすぐに食べる生鮮食品」から、「長期保存が可能な保存食」へと劇的な変化を遂げました。日持ちするようになったパスタは、船乗りたちの貴重な食料となり、ジェノヴァやピサといった海洋都市国家を通じて、イタリア全土、さらにはヨーロッパ各地へと広まっていくことになります。アラブ人がもたらした乾燥技術がなければ、パスタがここまで世界中に普及することはなかったかもしれません。まさに、パスタのグローバル化の第一歩といえるでしょう。
なぜシチリア島がパスタ作りの中心になったのか
アラブ人によって乾燥技術がもたらされたシチリア島は、瞬く間にパスタ生産の一大中心地となりました。その背景には、いくつかの地理的・気候的な好条件が重なっていました。
第一に、シチリア島がパスタ作りに最適なデュラム小麦の栽培に適した土地だったことです。デュラム小麦は、他の小麦に比べてタンパク質(グルテン)の含有量が多く、弾力性に富んでいるため、茹でても形が崩れにくく、独特の歯ごたえ(アルデンテ)が生まれます。
第二に、パスタの乾燥に適した気候です。シチリア島は地中海性気候で、一年を通して乾燥した風が吹きます。この乾いた風が、パスタを天日干しするのに理想的な環境を提供しました。
そして第三に、港町としての地の利です。シチリア島の中心都市パレルモは、地中海貿易の拠点であり、生産された乾燥パスタはここから船でイタリア各地や海外へと輸出されました。12世紀の地理書には、パレルモから大量の乾燥パスタ(当時は「イトリヤ」と呼ばれていました)が輸出されていたという記録も残っています。これらの要因が組み合わさったことで、シチリア島は中世における「パスタ産業の発祥の地」となったのです。
中世ヨーロッパの食卓とパスタ
シチリア島で生産が盛んになった乾燥パスタは、商業ルートに乗ってイタリア半島を北上し、やがてヨーロッパ各地の食卓に上るようになりました。しかし、この時代、パスタはまだ庶民が気軽に食べられるものではありませんでした。
中世において、パスタは主に貴族や裕福な商人たちのための高級料理として扱われていました。その理由の一つは、パスタの原料である小麦が、当時まだ高価な食材だったためです。また、料理法も現代とは大きく異なっていました。当時はトマトがまだヨーロッパに伝わっていなかったため、トマトソースのパスタはもちろん存在しません。
当時のパスタは、チーズやバターで和えるのが一般的でしたが、驚くべきことに、砂糖やシナモン、サフランといったスパイスをふんだんに使って、甘い味付けで食べられることも多かったようです。これは、当時スパイスや砂糖が非常に高価で、富の象徴とされていたためです。貴族たちは、その豊かさを誇示するために、パスタを甘く豪華に飾り立てて楽しんでいたのです。現代の私たちからすると少し意外な食べ方ですが、当時の食文化を反映した興味深い事実といえるでしょう。
ナポリが「パスタの都」になるまで
中世には高級品だったパスタが、誰もが知るイタリアの国民食となる上で、決定的な役割を果たした都市があります。それが南イタリアのナポリです。ここでは、ナポリがどのようにして「パスタの都」と呼ばれるようになったのか、その歴史を紐解いていきます。
貧しい民衆を支えた主食としてのパスタ
17世紀から18世紀にかけて、ナポリはヨーロッパでも有数の大都市へと成長しましたが、同時に深刻な人口過密と食糧問題に直面していました。限られた土地で多くの人々を養う必要があり、安価で栄養価の高い食料が求められていました。
そこで注目されたのがパスタです。パスタは、
- 原料が小麦粉と水だけで安価に作れる
- 乾燥させれば長期保存が可能
- 炭水化物が豊富で腹持ちが良く、エネルギー源になる
といった利点を兼ね備えていました。当初は手工業で作られていましたが、ナポリの食糧需要の高まりとともに、生産量を増やすための技術革新が進みます。この結果、パスタの価格はさらに下がり、肉や魚を買うことができない貧しい民衆(ラッツァローニと呼ばれた)にとって、なくてはならない主食となっていきました。街角にはパスタを茹でて売る屋台が立ち並び、人々は立ったまま手づかみでパスタを食べるのが日常的な光景だったといいます。こうしてパスタは、ナポリの庶民の胃袋を満たす、まさにソウルフードとして深く根付いていったのです。
産業革命がもたらしたパスタ生産の機械化
ナポリでパスタの需要が爆発的に増える中、その生産方法にも大きな変革が訪れます。19世紀、産業革命の波がイタリアにも及ぶと、パスタ作りは手作業から機械化へと移行していきました。
それまで、パスタ生地をこねる作業は、屈強な男たちが足で踏んで行う重労働でした。しかし、水圧や蒸気を利用した機械式プレス機が発明されたことで、生地をこねる工程から麺を押し出す工程までが自動化され、生産効率が飛躍的に向上したのです。特に、パスタ生地に圧力をかけてダイス(口金)から押し出す「押出機」の発明は画期的でした。これにより、スパゲッティやマカロニなど、さまざまな形のパスタを均一な品質で大量に作ることが可能になりました。
機械化による大量生産は、パスタの価格をさらに引き下げました。これにより、パスタはナポリだけでなくイタリア全土の庶民にとって、より身近な食べ物となりました。ナポリは、近代的なパスタ産業の中心地としての地位を確立し、まさに「パスタの都」としての名声を不動のものにしたのです。
フォークの発明とパスタの食べ方の変化
パスタがナポリの民衆の主食となるにつれて、その食べ方にも変化が生まれました。当初、ナポリの庶民は、茹で上がった熱々のマカロニ(当時は長いパスタ全般を指す言葉)を屋台で買い、手でつかんで頭上にかかげ、下からすするように食べていました。これは衛生的とはいえず、また上流階級の人々からは行儀が悪いと見なされていました。
この状況を変えたのが、フォークの改良です。もともと肉などを突き刺すための2本刃や3本刃のフォークは存在していましたが、長いパスタを絡め取って食べるのには不向きでした。そこで、ナポリ王フェルディナンド2世の宮廷で、長いパスタを上品に食べられるように、刃先が4本で、少し湾曲した形のフォークが考案されたといわれています。
この新しいフォークは、スパゲッティをくるくると巻きつけて口に運ぶのに非常に便利でした。この発明により、パスタは手づかみで食べる庶民の食べ物から、食卓で上品に楽しむ料理へと昇華し、上流階級にも受け入れられるようになりました。フォークという食器の進化が、パスタの食文化そのものを変えた、興味深いエピソードです。
パスタとトマトの運命的な出会い
今や「パスタ」と聞けば、多くの人が赤いトマトソースを思い浮かべるのではないでしょうか。しかし、この最高の組み合わせが生まれるまでには、長い時間が必要でした。トマトがイタリアの食卓に登場し、パスタと結びつくまでの物語を見ていきましょう。
トマトはいつイタリアにやってきた?
パスタの最高の相棒であるトマトですが、その原産地はイタリアではなく、南米のアンデス山脈です。古代アステカ文明などで栽培されていたトマトがヨーロッパに伝わったのは、16世紀の大航海時代のことでした。
コロンブスのアメリカ大陸到達後、スペイン人の探検家によってトマトはヨーロッパにもたらされ、スペインの植民地であった南イタリアのナポリに伝わったのが16世紀半ばとされています。イタリア語でトマトは「ポモドーロ(pomodoro)」と呼ばれますが、これは「黄金のリンゴ(pomo d’oro)」を意味します。最初に伝わったトマトは、現在主流の赤いものではなく、黄色い品種だったため、このように呼ばれるようになったといわれています。
最初は観賞用?トマトが食用になるまで
イタリアに伝わった当初、トマトはすぐには食材として受け入れられませんでした。その鮮やかな色合いから、毒を持つナス科の植物(ベラドンナなど)の仲間だと考えられ、「毒がある」と信じられていたのです。そのため、長い間、もっぱら観賞用の植物として庭園を彩る存在でした。
この状況が変わったのは18世紀頃、食糧難に苦しんでいたナポリの貧しい人々が、他に食べるものがなく、勇気を出してトマトを口にしたのがきっかけだったといわれています。食べてみても毒はなく、むしろ美味しいことがわかると、トマトは次第に食用として広まっていきました。
特に、イタリア南部の強い日差しはトマトの栽培に適しており、安価で手に入る食材として庶民の間に浸透していきました。最初はそのまま食べたり、簡単なソースにしたりしていましたが、やがて本格的な調理法が開発され、イタリア料理に欠かせない食材へと成長していくことになります。
トマトソースパスタの誕生
トマトが食用として普及し始めた19世紀初頭のナポリで、ついにパスタとトマトは運命的な出会いを果たします。それまでのパスタは、チーズやラード(豚の脂)で和えるのが一般的でしたが、ここにトマトソースを合わせるという画期的なアイデアが生まれました。
文献上でトマトソースのパスタが初めて登場するのは、1837年に出版された料理本とされています。ナポリの郷土料理を紹介したこの本に、「ヴェルミチェッリ(スパゲッティの一種)のトマトソースがけ」のレシピが掲載されました。この料理は、安価で手に入るパスタとトマトを組み合わせた、まさに庶民の知恵から生まれた一品でした。
この新しい食べ方は瞬く間にナポリで大流行し、やがてイタリア全土に広がりました。パスタのうま味とトマトの酸味・うま味が見事に調和したこの組み合わせは、まさに完璧なマリアージュであり、現代に至るパスタ料理のイメージを決定づけたのです。もしこの出会いがなければ、私たちの知るパスタの世界はまったく違うものになっていたかもしれません。
年代 | 出来事 |
---|---|
16世紀 | トマトが南米からヨーロッパ(イタリア)へ伝来 |
17-18世紀 | 主に観賞用として栽培される |
18世紀後半 | ナポリの庶民の間で食用として広まり始める |
19世紀初頭 | トマトソースとパスタを組み合わせた料理が誕生 |
1837年 | 料理本にトマトソースパスタのレシピが掲載される |
日本におけるパスタの歴史
今では日本の家庭でも当たり前のように食べられているパスタ。しかし、日本に伝わってから、私たちの食卓に定着するまでには、独自の歴史がありました。ここでは、パスタが日本でどのように受け入れられ、進化していったのかを見ていきましょう。
明治時代に伝わった「マカロニ」
日本とパスタの最初の出会いは、明治時代初期にさかのぼります。日本に初めてパスタを紹介したのは、1873年(明治6年)に来日したフランス人の宣教師、マルク・マリー・ド・ロ神父とされています。彼は長崎県の外海(そとめ)地区で、貧しい人々の自立を支援するために、マカロニの製造を教えました。これが、日本におけるパスタ製造の始まりといわれています。
また、同じ頃、横浜の外国人居留地などでは、海外から輸入されたマカロニやスパゲッティが食べられていたという記録も残っています。当時の日本では「マカロニ」や「うどんの親玉」などと呼ばれていましたが、まだまだ一般庶民には馴染みのない、ごく一部の人々だけが知る西洋料理でした。国産化の試みはあったものの、本格的に普及するのはまだ先のことになります。当時の日本人にとって、パスタは文明開化を象徴する珍しい食べ物の一つだったのです。
戦後の食糧難とスパゲッティの普及
日本でパスタ、特にスパゲッティが本格的に普及するきっかけとなったのは、第二次世界大戦後の食糧難の時代でした。戦後、日本は深刻な米不足に陥り、アメリカから援助物資として大量の小麦粉が供給されました。この小麦粉を使ってパンやうどんが作られる中で、スパゲッティも注目されるようになります。
また、日本に進駐してきたアメリカ軍兵士が持ち込んだ食文化の影響も大きいものでした。彼らが食べていたスパゲッティは、日本人にとって目新しく、洋食への憧れとともに広まっていきました。この時期、安価でお腹いっぱいになるスパゲッティは、食糧難の時代を支える貴重な食料の一つとして、徐々に日本の食卓に浸透していきました。1955年(昭和30年)には、日本で初めて国産のスパゲッティが量産されるようになり、家庭でも手軽に調理できる食材として定着していくことになります。
日本独自のパスタ文化の発展
日本に定着したパスタは、その後、イタリア本国とは異なる独自の進化を遂げていきます。その象徴的な存在が「スパゲッティ ナポリタン」です。
ナポリタンは、戦後に横浜のホテルニューグランドで、進駐軍の兵士がスパゲッティにケチャップをかけて食べていたのをヒントに、総料理長が考案したといわれています。トマトソースの代わりに、より手に入りやすく日本人の口に合うトマトケチャップを使い、玉ねぎやピーマン、ソーセージといった具材と共に炒めるスタイルは、日本中に広まり、喫茶店の定番メニューとなりました。イタリアのナポリには存在しないこの料理は、まさに日本で生まれたパスタ文化の代表格です。
その後も、日本人の味覚や食文化に合わせて、さまざまな和風パスタが誕生します。博多の明太子を使って作られた「たらこ(明太子)スパゲッティ」や、醤油やきのこ、大葉、海苔などを使った「和風パスタ」は、今やパスタの定番ジャンルの一つです。このように、海外の食文化を柔軟に取り入れ、自分たちのスタイルに作り変えてしまうのが、日本の食文化の面白さであり、パスタもその例に漏れず、独自の発展を遂げてきたのです。
まとめ:パスタの歴史を簡単に振り返る
この記事では、パスタの歴史を簡単にご紹介してきました。その歩みを振り返ってみましょう。
- パスタの原型は古代ギリシャ・ローマ時代に存在したが、茹でる調理法ではなかった。
- マルコ・ポーロが伝えた説は誤りで、それ以前からイタリアにはパスタが存在した。
- アラブ人によって乾燥技術がもたらされ、シチリア島で乾燥パスタの生産が盛んになった。
- 17世紀以降、ナポリで庶民の主食として普及し、機械化によって大量生産が可能になった。
- 19世紀に、南米原産のトマトと出会い、トマトソースパスタが誕生した。
- 日本では戦後に普及し、「ナポリタン」や「和風パスタ」など独自の進化を遂げた。
普段何気なく食べている一皿のパスタには、古代から現代へと続く、人々の知恵と工夫、そして文化の交流が詰まっています。この壮大な歴史を知ることで、次の一口がさらに美味しく、感慨深いものになるかもしれません。
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